禅とマインドフルネス

「非思量」の境地へ:禅の智慧がマインドフルネス実践に深遠な静寂をもたらす

Tags: 非思量, 禅, マインドフルネス, 坐禅, 深層実践

はじめに:マインドフルネスのその先へ、禅の深遠な教えを求めて

マインドフルネスの実践を数年続け、基本的な心の落ち着きや集中力の向上を実感されている方も多いことでしょう。しかし、ある段階に到達すると、実践のマンネリや、思考と感情のより深い層との向き合い方に新たな課題を感じることはないでしょうか。私たちは、思考を手放し、今この瞬間に意識を向けることを学びますが、その「思考」そのものの本質、あるいは思考が生まれる前の静寂について、さらに深く探求したいという内なる声が湧き上がることもあるかもしれません。

本記事では、禅仏教に古くから伝わる深遠な概念である「非思量(ひしりょう)」に焦点を当て、この智慧がマインドフルネスの実践にどのような新たな視点と深みをもたらすのかを解説いたします。禅の祖師である道元禅師の教えに根差す「非思量」の境地は、単なる思考の停止ではなく、思考の根源を超越した意識の状態を指します。この理解を深めることで、マインドフルネスの実践はより本質的な静寂へと誘われ、自己理解の深まりを促すことでしょう。

「非思量」とは何か:禅の源流にある深遠な教え

「非思量」とは、道元禅師が坐禅の核心として説いた重要な概念の一つです。一般的なマインドフルネスの実践では、思考が浮かんできたらそれに気づき、判断せずに手放すというプロセスを踏みます。これは思考を「対象」として観察し、距離を取るというアプローチです。

しかし、道元禅師が説く「非思量」は、さらに一歩進んだ洞察を提供します。道元禅師は坐禅において、「思量すること莫(なか)れ、不思量(ふしりょう)を思量せよ、非思量とはこれなり」と説かれました。「思量すること莫れ」は思考を停止すること、「不思量」は思考しない状態を意識的に追求することと解釈できますが、「非思量」はそれらを超えた境地です。

「非思量」とは、思考を停止しようと意図するのではなく、また思考しないことを意識的に捉えるのでもない、思考そのものが存在しない根源的な意識の状態を指します。それは、思考が生じる以前、あるいは思考が消え去った後の、純粋で広大な静寂そのものです。意識の最も深い層に存在する、言葉や概念では捉えられない、ありのままの「今、ここ」の現実に意識が溶け込むような境地と言えるでしょう。

マインドフルネスにおける思考への向き合い方と「非思量」

マインドフルネスの実践では、思考を「雲のように流れるもの」として捉え、それに囚われずに手放すことを学びます。これは、日々の喧騒の中で心が散乱しがちな私たちにとって、非常に効果的な心の訓練です。しかし、この段階を超えて、さらに深く自己を洞察しようとするならば、「非思量」の教えが新たな光を投げかけます。

通常の「思考を手放す」というアプローチは、思考を「外側にあるもの」として観察し、距離を置く意識が残りがちです。これに対し、「非思量」は、その思考そのものの根源、そして思考する「私」という存在の認識すらをも超えた、究極の「無我」の体験へと私たちを導きます。思考と観察する自己の分離すらなくなり、意識そのものが純粋な現前として立ち現れる状態です。

これは、実践の深化に伴い、時に体験する「思考が完全に消え去ったかのような、広々とした意識の静寂」に似ています。マインドフルネスによって培われた集中力と気づきを土台として、「非思量」の視点を取り入れることで、思考の性質をより深く理解し、その執着から解放される道が開かれるのです。

「非思量」を実践に活かす:坐禅とマインドフルネスの融合

「非思量」の境地は、特に坐禅の実践を通じて深められるものです。坐禅における「只管打坐(しかんたざ)」(ただひたすらに座る)は、まさに「非思量」への道です。特定の目的や意図を持たず、思考を追わず、呼吸を整えることすら意識の中心とせず、ただ「座る」という行為そのものに身心を委ねることで、やがて「非思量」の静寂が訪れるとされます。

この坐禅の精神性は、マインドフルネスの実践にも応用できます。日々の瞑想において、思考が浮かんできても、それを手放すという「行為」すらも意識せず、ただ「あるがまま」にその瞬間に留まることを試みてみてください。それは、何かを「しようとする」意識を手放し、純粋な存在そのものに身を置く試みです。

また、日常生活においても、何かを判断したり、過去や未来について考えたりする習慣に気づいた時、瞬時にその思考の連鎖から離れ、ただ「今、ここ」の感覚(音、光、身体の感触など)に意識を戻す訓練を繰り返すことで、「非思量」の片鱗を掴むことができるかもしれません。これは、私たちを絶えず動かす「こうあるべき」という執着や期待からも解放される道でもあります。

「非思量」がもたらす深遠な静寂と自己理解

「非思量」の境地に触れることで、私たちは内なる無限の静寂に気づき、それが自己の本質と深く結びついていることを理解します。思考の停止ではなく、思考の根源を超えた静寂は、単なる心の平静を超え、真の安寧と自由をもたらします。

この深遠な静寂の中で、私たちは自分自身を構成する思考、感情、身体感覚といったあらゆる要素が、常に変化し、実体を持たないものであることを、体験として理解し始めます。これは、自己という概念への執着からの解放であり、世界や宇宙との一体感を深く感じる体験へと繋がる可能性を秘めています。

マインドフルネスの実践がマンネリ化していると感じる時、あるいはさらに深い自己洞察を求める時、「非思量」という禅の智慧は、新たな実践の地平を切り開くための強力なガイドとなるでしょう。日々の実践に「非思量」の精神を取り入れることで、私たちはより豊かな心の広がりと、揺るぎない内なる平和を見出すことができるはずです。

結論:禅の智慧を道標に、さらなるマインドフルネスの深みへ

マインドフルネスの実践は、私たちが自己と世界を理解するための素晴らしいツールです。そして、禅の「非思量」という教えは、その実践をさらに深いレベルへと導くための、貴重な羅針盤となります。思考のその先にある純粋な意識の静寂に触れることで、私たちは日常のあらゆる瞬間に、より深い気づきと安らぎを見出すことができるでしょう。

この探求の道は、終わりなき旅のようなものです。しかし、一歩一歩、意識の深い層へと足を踏み入れるたびに、私たちの心はより広がり、より柔軟になり、そして何よりも、より穏やかになっていくことを実感できるはずです。禅の智慧を道標に、さらなるマインドフルネスの深みへと歩みを進めていきましょう。